20年以上にわたってニューヨークで暮らし、アメリカから日本を、そして世界を観てきたジャーナリスト・北丸雄二さん。そこで得た知見をもとに、「LGBT」で人生を読み解きます。

ゲイの話題を避けること、「De-Gay(脱ゲイ化)」のそもそもの端緒、「べつにいちいちゲイだと言わなくてもいいじゃないか」というそれとない一連の圧力の出どころは、ゲイが「セックスや性的快楽の追求しか考えていないヘンタイ」だと考えられてきたからだと書きました。「ゲイ」と発語するのが、性的な言挙げだと思われている──。

なので「私はゲイです」というカミングアウトは、極論を言えば、その相手には「私は同性とセックスしたいと思っているんです」と打ち明けているように聞こえてしまう──そういうメカニズム。カミングアウトの困難とは、たとえさりげなくであっても「ゲイです」と表明することが、「おまえのセックスの話なんかいちいち聞きたくないんだよ」という反射的な反応を惹き起こしてしまうことが原因です。こちらは自分の生きる在り方を話しているつもりなのに、相手は単にセックスの話だと受け取るという、まるでバベルの塔みたいな意思の不通。

もっと敷衍してしまえば、カミングアウトしてわかることは、カミングアウトした自分の“正体”というよりもむしろ、カミングアウトされた相手の“正体”のほうなのです。その相手が、LGBT+のことをどういうふうに考えているか、とか、人権とか差別とか社会正義とかいうものをどう考えてきたのか、といった生き方の正体……すごく挑発的な言い方ですがね。

とはいえ、「ゲイ」が「セックス」の話であるという思い込みに、根拠がないわけではありません。

私の高校時代からの親友はその後札幌市役所の公務員となって結構偉いところまで行った人物ですが、その間に公共イベントやら男女共同参画事業やら人権問題などにもタッチし、当然のことながら札幌で長く続けられてきた「レインボーマーチ札幌」の市側の協力に関わりもしました(「レインボーマーチ札幌」は2013年に終了。2017年以降、別組織の運営で「さっぽろレインボープライド」が開催されている)。その男が私に「なあ、あれは一体何なんだ?」とすごい顔をして聞いてきたことがありました。札幌の中心部をパレードして性的少数者の存在を示し、かつ孤立している目に見えない“兄弟姉妹”たちを励ます、というこのイべントでは、事務局が公式パンフレットを作成して市長のメッセージなども掲載するのですが、そこに集まった協賛広告が乱交だフンドシだ緊縛だハッテンだとまるでセックスだらけだったと言うんですね。「あんなものに市長のメッセージなんか載せられないぞ。何考えてんだ、あいつら」と。

私と何十年も付き合ってきて私の書くものも読んできた男ですから、ゲイに偏見があるとかいう人間ではないのは確かなのですが、まあ、ゲイ関連の広告が「性」に偏る事情に通じていなければ、突然出遭った「性産業」の実態にビックリするのも宜なるかなとは思います。

なぜゲイ(ここでは男性同性愛者)向けのメディアが「性」に傾くのか?──というテーマの立て方が正しいとは、実は思ってません。立場が同じなら、男性異性愛者のメディアだって同じことになると思うからです。それ以上に、新宿歌舞伎町の裏側を知っているならそれは新宿2丁目の裏側とほとんど同じ、いやいや絶対的に数が多い異性愛者たちのバラエティから言って、歌舞伎町のほうがよほどヤバいというのが私の印象です。「立場が同じ」というよりもむしろ、数や認知の上で圧倒的優位に立っているその立場ゆえに、異性愛者(と分類される人)たちの性への躊躇・逡巡・屈託・罪悪感のなさは同性愛者たちの想像を遥かに凌駕しているのではないかとさえ思っています。違うのはただ、その絶対的な需要人口の多さによって、彼らには交通可能な供給場所がTPOのすべてでゾーニング規制されてもじゅうぶんに成立しているという点でしょう。

とはいえ、そんな事情を知る由もなかった私の思春期に、いちばん初めに抱いた疑問は「同性愛」という言葉の意味でした。これは「同性」に対する「愛」の問題なのか、それとも「同性」への「性愛」の問題なのか、というのがわからなかったのです。中学二年生でした。当時は広辞苑でも百科事典でも同性愛は「性的倒錯」だとか「異常性欲」「変態性欲」と書かれていた時代ですから、世間は圧倒的に「同性愛」は「性」の問題だと捉えているようでした。

「同性愛」という翻訳元の「Homosexuality」にも「愛」の痕跡はどこにもありません。「-sexuality」の部分を「性愛」というふうに「愛」という文字を添えて訳したのは、誰かさんの忖度なのか斟酌なのか。しかしいずれにしてもこの「愛」は「sex」に基づく心理的な「粘着」を言い換えた翻訳上の補足語なんでしょうし。つまり欲動と欲望の結果の産物を、私たちはなんだか麗しく「愛」と呼びなした。

当時読んだ芥川龍之介の『侏儒の言葉』に、「恋愛はただ性欲の詩的表現を受けたものである。少なくても詩的表現を受けない性欲は恋愛と呼ぶに値しない」と書いてあって、14歳の私は泣きました。そのころ初めて人をすごく好きになっていたからです。同性の同級生でした。私はそれを友情と愛情の混淆物だと考えていました。けれどその「友愛」にくっついて、自分の「性」が影のようにうずうずと蠢いていることも知っていました。「性」はそのころ、不安であり不穏でした。芥川の言葉に反応したのは、もちろんその不安で不穏な「友愛」が「恋愛」と同義であろうことに気づいてもいたからでしょう。

余談ですが、件の芥川のアフォリズムは、ずるいレトリックを使っています。「恋愛はただ性欲の詩的表現を受けたものである」と言って、「恋愛」と「性欲」とを同じ価値に置きます。でも二つ目の文で「詩的表現を受けない性欲は恋愛と呼ぶに値しない」と、「呼ぶに値する」「恋愛」を「性欲」より上のものと読んでしまうように誘導するのです。どっちなんだ、とツッコミたくもなりますが、これを書いた当時の彼だって三十代そこそこ。このことを書いていること自体、芥川もまた「愛」と「性」のあわいで往ったり来たりしていたということでしょう。もっとも彼は、その後すぐに自殺してしまうのですが。

しばらくして私も「性」と「愛」が同じものだと気づきますが、この二つの齟齬は世間ではかなり大きなものです。そもそも「性」を描くことだけを純粋にテーマにした小説とか映画というのは大体がポルノとして表の社会からは遠ざけられます。「ポルノ以上の価値」があるとされる純粋ポルノは、寡聞にして18世紀末に登場したマルキ・ド・サドくらいしか思いつきません。『O嬢の物語』だって「O」は愛を求めていたし、最近話題になったアメリカのエロティック小説『Fifty Shades of Grey』だって純粋に性だけを書いていたら物語は成立していません。ほとんど全ての「性」は、「愛」の色付けによって、あるいは「愛」にならない葛藤によって、あるいは「愛」ではないという逆説によって、意味を付与されてきました。まさに芥川の指摘した「ポエム化」の罠です。

ちなみに、三島由紀夫はこの「愛」によるポエム化を避けるために、「美」という概念をそこに置き換えたと、先ごろ亡くなった橋本治が看破しています。「血みどろの性欲を語るために『美』という比喩が使われ、同時に、血みどろの性欲を示唆するものが、『美』を語るための比喩にも使われる。そこまでは三島由紀夫の尋常であるが、しかし、文体における装飾性には、もう一つの役割がある。それは、論理を迂回させる機能である」(橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』新潮社、p.237)と。いずれにしても、私たちはそういう「性」を迂回させる共同幻想の中で“表”の世間を営んでいるようです。

続く。次回は2月27日(水)更新予定です。

*本連載エッセイは、誠文堂新光社ウェブサイト内の「よみものどっとこむ」との連動企画です。

■北丸雄二
ジャーナリスト、コラムニスト、作家、翻訳家/元々は毎日新聞から東京新聞(中日新聞東京本社)に転社した社会部畑の新聞社記者で、クリントンが大統領に就任した1993年にニューヨーク支局長に着任。3年半後の96年夏に帰任を命じられたのを機に退社し、独立。その後もニューヨーク在住のまま、大統領がG・W・ブッシュ〜オバマ〜トランプと変わった2017年まで、計24年間、米国政治・社会・文化、日米及び国際関係の分野でジャーナリズム活動を続ける。18年、実母の老齢化のために拠点を日本に移し、現在は主にトランプ・ウォッチャーとしてTBSラジオやFM TOKYO、大阪MBS及びネットTVなどで米国関連ニュースを解説。一方で、英米文学、ブロードウェイ・ミュージカルや戯曲の翻訳も多く、『世界』『現代思想』『ユリイカ』などで国際情勢から映画、音楽、文芸まで各種評論も行っている。LGBTQ+関連では90年に米国ゲイ文学の金字塔と言われる『ザ・フロント・ランナー』を翻訳刊行したのを機に、新聞業務と並行するライフワークとしてエイズ問題や刻々と拡大する人権状況を取材執筆開始。ニューヨークでは日本人コミュニティ向けにHIV/AIDSの電話相談の開設・運営にも尽力する一方、97年から、日本のゲイ月刊誌『Badi』に米国を中心としたゲイ関連ニュースコラムを連載。同年6月に青土社から刊行の『ゲイ・スタディーズ』(キース・ヴィンセント他著)でも全面的な監修を担当し、ほかにLGBTQ+関連のニュースを報じるプロフェッショナルが誰一人としていなかった当時、『AERA』で「日本に向けて性的マイノリティに関する正しい情報を発信するゲイのジャーナリスト」という紹介記事も掲載された。現在、十年来の同性パートナーと5歳の黒猫とともに東京に暮らす。
ツイッター:@quitamarco

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