で、2009年の日本版初演の時、この「マーク」役の日本の若い男性俳優が、上演後の観客向けアフタートークの舞台で、「オレ、こういうオカマっぽい役、ほんとはイヤなんだよね」と口にしたのでした。

 彼は(男たちがオトコらしいとされる)広島県の出身で、自分でもその事実を誇りに思っている青年でした。観客には彼のファンも多く、おそらくそのコメントは彼のいつものごく普通の態度として、ほぼ笑いの中で受け流されました。10年前のその当時の日本は、世間で普通に「オカマ」という揶揄語が流通し、それが差別語であるという認識も多く共有されてはいなかった時代です。「オカマ」はそうやってからかうべき第二級の生き物でした。

 しかし、彼らのステージを観るためにアメリカから帰国していた私にとって、それは違いました。エイズ禍における性的少数者たちの命がけの言葉の戦いは、ここにはまったく届いていない。そう思うとなんだかすごく悲しくなりました。届いていないという事実だけでなく、その事実を知らないままでいるこの青年たちのことも。彼らは世界で何が起きているのかをほとんど知らない。日本で流通している日本語だけの情報で満ち足りて、そこから出ることも、その外に世界が存在することも考えていない。日本の世間は日本語によって護られているつもりで、その実、その日本語によって世界から見事に疎外されているのだと思いました。

 その夜、私は彼に手紙を書きました──『アルターボーイズ』の観客の中に、きみを好きなファンの中に、「オカマっぽい」人がいるかもしれない。その人たちがきみのあの言葉を聞いたらとても傷つくと思う。ちょうど、きみが演じたマークのように、傷つく。きみはマークを演じたいのか、それともマークをいじめる連中の方を演じたいのか、と──『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』という映画でアカデミー脚本賞を受賞した俳優のマット・デイモンは、そこでも共演していた幼馴染みの俳優ベン・アフレックといつもツルんでいることを揶揄され、記者会見で「あなたたちはゲイではないかという噂がありますが、実際、どうなんですか?」と冗談交じりに訊かれたことがあります。そのときマット・デイモンは「もし僕が今それを否定したら、ゲイであるということが何か悪いことのように受け取られるかもしれません。だからその質問にはお答えしませんし、ゲイだと噂されても僕にはまったく問題はありません」と応じました。シェイクスピア俳優としても名高い名優パトリック・スチュワートは、映画『ジェフリー』でゲイの役をやることが発表になって周囲の人たちに名声に傷がつくのではないかと心配されます。そのとき彼は「不思議なことに私が殺人犯の役をやった時には誰もそんな心配はしてくれなかった。私にはゲイの友人がたくさんいる。いま私が心配すべきことは、このゲイの役をそんな友人たちに恥ずかしくないよう立派に演じることだ」とコメントしました。せっかく「マーク」の役をやるのだから、私はきみに、こういうことを言える役者になってもらいたいと思っています、と。

 ──彼の名誉のために書き添えれば、マネジャーを通してその手紙を受け取った翌日、彼の演技はまるで別人のように変わりました。セリフだけでなく、その変身自体が感動的なほどに。

 そのとき思ったのは、彼らには単にそうした思考回路が与えられていなかっただけなのだ、ということでした。日本語の思考回路に、ほんのちょっと別のところへと通じる回路を添えてやれば、彼らだってすぐにいろんなところに行けるのです。なのにそんな新たな何かへと通じるチャンスを、「外界」の影響を受けない日本語(だけの)環境は与えることがない、いつまでも他の可能性に気づかないで過ごしてしまう。いや、過ごせてしまう。そしてそのことを、不埒だとも思わない……。

 そんな「日本語環境」の例をもう少し挙げましょう。
 『地球の歩き方』という、若い旅行者向けの自由なガイドブックがあります(今でもあるのかしら?)。その「ニューヨーク」版では90年代をほぼ通して、グリニッチ・ヴィレッジの項目の最初に「(ヴィレッジは)ゲイの存在がクローズ・アップされる昨今、クリストファー通りを中心にゲイの居住区として有名になってしまった。このあたり、夕方になるとゲイのカップルがどこからともなく集まり、ちょっと異様な雰囲気となる」と書かれていました。

 一世を風靡した『ブルータス』という雑誌の95年のニューヨーク特集では、チェルシー地区にあった「スプラッシュ」という当時の大人気ゲイバーについて「目張りを入れた眼でその夜の相手を物色する客が立錐の余地なく詰まった店で、彼ら(バーテンダーたちのことです)の異様なまでの明るい目つきが、明るすぎてナンでした」とあります。

 同年初めの『モノ・マガジン』の「TREND EYES」のページには、渋谷パルコでの男性ヌード写真展の紹介があったのですが、ここには「〝らお〟といっても(中略)〝裸男〟と表記する。つまり男のヌード。(中略)男の裸など見たくもないと思う向きもいるだろうが」と書いてありました。

 いずれにしても今から読むとひどい書きようです。そういえば「野茂はお尻を向けて投げるが、ホモはお尻を向けて誘う」といったラジオ投稿の小ネタを集めた『野茂とホモの見分け方』なるお笑い本が出版されたのも96年でした。そしてこれらの言説が、以来(というか、そのはるかずっと前から)ついこの前まで延々と続いていたわけです。憶えているでしょう? 「LGBT」なんて言葉が新聞やテレビなどのマスメディアで頻繁に登場するようになる以前のことを。あるいは登場するようになってからもしばらくは(あるいはいまもまだ)そういう物言いが続いていることを。

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