日本語の「閉鎖性」について非難がましいことを言いたいわけではありません。手許にある集英社の国語辞典の末尾に、早稲田大学の中村明先生が「日本語の表現」と題する簡潔にまとまった日本語概論を載せています(現在の版ではどうなのでしょう?)。その中に、日本では口数の多いことは慎みのないことで、寡黙の言語習慣が育った、とあります。「その背景には、ことばのむなしさ、口にした瞬間に真情が漏れてしまう、ことばは本来通じないもの、そういった言語に対する不信感が存在したかもしれない」「本格的な長編小説よりは(中略)身辺雑記風の短編が好まれ、俳句が国民の文学となったのも、そのことと無関係ではない」として、「全部言い尽くすことは避けようとする」日本語の特性を、尾崎一雄や永井龍男、井伏や谷崎や芥川まで例を引きながら活写しているのです。

 中村先生が示唆するように、これは日本語の美質です。しかし問題は、この美しさが他者を想定しない、あるいは他者は勝手に憶測しろという美しさであるということです。

 徹底した省略と含意とが行き着くところは、「おい、あれ」と言われて即座にお茶とかビールとか風呂とか夕食の支度を始める老妻とその夫との会話のような、他人の入り込めない「身内」「仲間内」の言語であるということです。それは、その中にいる限り心地よく面倒もなく、それに関しては他人がとやかく言えるような筋合いのものではありません。ところがこの「身内・仲間内の言語」が、老夫婦の会話にとどまっていないところがいまの日本語の特質なのです。日本語では、そうした内輪の言葉が重用される代わりに、パブリック(公的)な、誰にでも通じる言説が蔑ろにされている……。

 いや、断定は避けましょう。どんな言語にも「仲間内の符丁」なるものは存在し、内向しようとするベクトルは人間の心象そのものの一要素なのですから、多かれ少なかれこの種の傾向はどの社会でも見られることです。けれど「日本語環境」の例として挙げた『地球の歩き方』などのテクスト(「出版する」ことを「パブリッシュ」と言います。この「パブ pub-」は「パブリック(公の)」の「パブ」と同じ意味です。「パブリッシュ」とは「公にする」という意味なのです)のいずれもが、それぞれの筆者の幻想する「私たち」だけを軸に(つまり「パブリッシュ」の何たるかを捨て去って、プライヴェート(私的)な文体で)書かれたことは(自覚しているか否かは別にして)確かなことのように思われます。

 「ゲイの居住区として有名になってしまった」と記すときの残念そうな素振りが示すものは、この筆者が思う“私たち”の中に、すなわちこの『地球の歩き方』の読者たちの中に「ゲイは存在しないのだ」という根拠のない思い込みです。「異様なまでの明るい目つきが、明るすぎてナンでした」と記すときの「ナンでした」という省略は、「あなたも当然わかるよね」という、(ゲイは存在しない“はず”の)読者への共感の強制と寄り掛かりです。「男の裸など見たくもないと思う向きもいるだろうが」という“お断り”は、さて、何だったのでしょう? ここではゲイだけでなく、女性と、女性の欲望をも無視して憚らないヘテロセクシュアルの男性ライターの(異性愛男性主義的)視野狭窄が示されるだけです。

 内向する日本語の“美質”が、こういうときには見事に他者への排除として機能しています。それは他の世界を拒絶して閉じ籠る、マジョリティたちの逆クローゼットの砦のように映ります。「おい、あれ」の二人だけの閨房物語です。「他の連中にとやかく言われる筋合いはない」という、「身内」だけの予定調和です。

 そう考えるといろんなことがわかってきます。例えば、日本の政治家たちはどうして何度も何度も「失言」を繰り返すのか?──政治家たちは、有権者・支持者たちにパブリックな「政治」を語るより「ぶっちゃけた話」をした方がウケるということを知っています。なのでよく「ここだけの話」をします。なぜなら、聴衆の有権者たちを自分の「身内」だと仮想して「ぶっちゃけた話」をするうちに、その論理がひっくり返って「ぶっちゃけた話」をしているのだから「身内」なのだというふうに思い込ませる。だからこそあなたたちは私の身内=支持者なのだ、というふうに取り込むわけです(その戦術を、自覚しているか否かはすでに関係ないほどに身に付いた政治家商売の自明として)。

 かくしてそこでは自動的に「他では話せない」「ぶっちゃけた」際どい本音が語られます。──「女性は産む機械」「私、すごく物わかりがいいんです。すぐ忖度します(笑)」「(岩手の)復興を協力していただければありがたい。そして復興以上に大事なのは(岩手選出で再選を狙う)高橋さん」そして「生産性のないLGBTのために税金を投入することは理解が得られない」……。

 それらは優れて「身内の言葉」なので、「身内の言葉」が通じない「外の世界」ではほとんど“誤解”されます。その“誤解”が「失言」として問題化するわけです──「そんなつもりはなかったのに、どうしてそういうふうに受け取るんだろう?」と納得などまったくしていないながらも、彼らはそこでしかし形だけの謝罪に追い込まれる。納得していないからそれは繰り返される。

 「外の世界」とは公的な言語空間のことです。にも関わらずそこで敢えて「身内の言葉」を話す方が「ウケる」と奨励される社会。つまりそれは、昔からある「本音」と「建前」の二枚舌の話につながります。

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