20年以上にわたってニューヨークで暮らし、アメリカから日本を、そして世界を観てきたジャーナリスト・北丸雄二さん。そこで得た知見をもとに、「LGBT」で人生を読み解きます。

 日本語という言語がどうしても身内・仲間内の言葉に重きを置いていて、誰とでも通じるパブリック(公的)な言説が蔑ろにされているという前回の指摘に対して、外の世界と相互交通できるような双方向に風通しの良い言語は、ではどうしたら獲得できるのかという質問をもらいました。

 それに関してはもう20年以上考えてきているのですが、有効な答えはまだ一つしか見つかっていません。それは、電車やバスの中で、お年寄りや身重の方、困っている人に「座りますか?」と声をかけて席を譲ることです。あるいは通りや駅や何かの施設ででもとにかく公共の空間で、助けが必要な人に声をかけて手を貸すことです。この場合、まず「声をかける」という行為が大切です。

 これはニューヨークから東京に戻るたびに感じていたことですが、パブリックな空間では、東京で出歩いている人たちはほとんど誰も声を出さないんですね。携帯電話が普及し始めたころ、私は電車やバスや地下鉄で繰り返される「車内での携帯電話は周りの人の迷惑になるのでご遠慮下さい」というアナウンスに、この執拗さ、慇懃さは何なんだろうと考えていました。そりゃ電話口では人はつい普段より大声になってしまうし、それをうるさいと思う人もいることはいるでしょう。けれど私にははっきり言ってこのアナウンスの方がうるさかった。言葉は丁寧だがその実ひとを子供扱いしているようなこの無礼な命令は、いったい何なんだろう、ととても不快だったのです。

 気づけばアメリカ、特にニューヨークなどの都会では、街角でもビルの中でもスーパーの中でも、他人に声を掛けることにあまり抵抗がないようです。他人にぶつかりそうだったら「エクスキューズ・ミー」と言うし、ぶつかっちゃったら「ソーリー」と言う。言わない人には敢えて振り向きざまに「エクスキューズ・ユー!」と、「ミー」を「ユー」に替えて、代わりにわざとこちらから「謝りの言葉」を聞こえよがしに“代弁”してやったりもするのです。とにかく発語することに躊躇しない。

 バスでも地下鉄でもよく「その服、最高、どこで買ったの?」とか、見知らぬ人同士でさえ朗々と会話をしています。降車時にバスの運転手に「サンキュー」と声をかければ「ハヴ・ア・グッド・ワン(良い日を)!」と返されます。高齢者に席を譲ったら譲ったで、譲ったあとでもけっこう長々となにかをしゃべったりしたりします。

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