20年以上にわたってニューヨークで暮らし、アメリカから日本を、そして世界を観てきたジャーナリスト・北丸雄二さん。そこで得た知見をもとに、「LGBT」で人生を読み解きます。

 前回コラムの末尾で紹介した2015年公開のイギリス映画『Suffragette サフラジェット』に関し、女性の参政権闘争を描くその邦題が『未来を花束にして』という、なんともよくわからんじつに“日本的なポエム”に改ざんされていたことに対して「バカにし」ていると書きました。「そういう大昔の少女漫画風なタイトルこそ、この映画が最も排除したかったものだというのに」と。

 またまた同じようなことが起きました(ほんとキリがない)。5月10日に日本でも公開が始まった米映画『RBG 最強の85才』は、若き弁護士時代から女性やマイノリティの権利発展に努め、1993年のビル・クリントン時代に女性として史上2人目となる最高裁判事に就任したルース・ベイダー・ギンズバーグ(RBG)の人生の戦いを描いたドキュメンタリーです。こちらの宣伝コピーは、オリジナルでは「HERO. ICON. DISSENTER」つまり「英雄。アイコン。ノーと言う者」です。それが日本でのコピーでは「妻として、母として、そして働く女性として」となりました。

 ねえ、この人はむしろ女性たちが「妻としてでもなく、母としてでもなく、働く女性としてでもなく、一人の人間として」扱われるために戦ってきた人なのです。それが彼女を「Notorious RBG」つまり、敵陣営にとっては非常に「悪名高いRBG」とまで呼ばしめた所以。それが日本に来るとどうしてかくも「妻」とか「母」とか「女性」とかを強調する「男」たちからの目線で語られねばならなくなるのでしょう? そのカラクリはいったい何なのでしょう?

 この連載の最初で、これまで日本で公開された海外ゲイ映画の営業戦略として「ゲイやレズビアンという言葉は使わずに『普遍的な愛の物語』という売り方をする」傾向を紹介しました。映画のチケットを売るのが商売ですから、ゲイやレズビアンに限らない、より大きな標的顧客層としての一般市場に訴求するのは理解できないわけではありません。背に腹は代えられない。けれどだからこそ、せめてそれはその都度、指摘し続ける必要があります。それは「腹」であり「背」ではないのだと。

 もう20年以上も、私はその仕組みを「白人」「男性」「異性愛者」vs.「黒人」「女性」「ゲイ(性的少数者)」というアイデンティティの対立軸で考えてきました。ある時はそこに「HIV陰性者」vs.「HIV陽性者」も加えながら。それは「あらかじめそこに存在していた主権者たち」vs.「前者に対抗するために敢えて自らを再構築し再獲得し確立させた者たち」との対立の構図でした。

 「歴史」も「世界」も、常に誰かを主語にして語られてきました。私が目の当たりにしたアメリカを例にとれば、その主語は長らく「白人」の「男性」の「異性愛者」たちであり、彼らによって語られる歴史観であり世界観でした。それが前者です。

1 2 3 4 5
>

バックナンバー