欧州戦線はナチス・ドイツのファシズムと戦う場所でした。それは民主主義を守るための戦争でした。その民主主義の戦士たちが、人種隔離部隊の存在をどうしたら擁護できるのか。それはナチス・ドイツと同じ優生思想でした。ヨーロッパはそんな差別主義と戦うために戦争していたのです。
 詳細はもっと複雑で米軍憲兵と黒人兵の間で発砲を伴う数多くの衝突も起きたようです。しかしとにかくアメリカの黒人兵たちはここで初めて、自分たちが「同じ人間である」ことに気づく。それが彼らにとってどんなに覚醒的な経験だったかは、日本で今を生きる私たちには容易に想像できるものではありません。
 そんな大戦は民主主義勢力の勝利で終わり、やがて黒人兵たちが大量にアメリカ本土に帰還してきます。そこにはまだ人種隔離政策に裏打ちされた公認の人種差別が蔓延していました。南部ではクー・クラックス・クラン(KKKが跋扈していました。
 ヨーロッパで曲がりなりにも「平等」を経験してしまった黒人たちに、もう後戻りはできませんでした。人種差別に対抗する者たちが頻出し始めます。中にはそのせいで軍服姿のままでリンチで殺される黒人犠牲者も出ました。
 2013年に制作されたドキュメンタリー映画『Choc’late Soldiers from the USA』(チョコレート色の米兵たち)で、退役兵の一人が次のように語っています。


I think the impact these soldiers had by volunteering was the initiation of the Civil Rights movement, ’cos these soldiers were never going back to be discriminated against again. None of us were.
そうした志願兵たちが受けた衝撃が公民権運動の始まりだったと思う。そうした兵士たちはもう二度と再び差別される対象に立ち戻ることはなかったから。私たちの誰一人として、だ。


 そしてそれは散発的な個人の抗議から、「黒人」としてのアイデンティティを共有する者たちの集団的かつ体系的な抗議へと発展してゆくのです。ローザ・パークスモンゴメリー・バス・ボイコット事件1955年)、私には夢がある I Have a Dreamという言葉で知られるマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の演説(1963年)、そして選挙権の否定に抗議したセルマの「血の日曜日事件」と大行進(1965年)──黒人公民権運動は、ヨーロッパ戦線における黒人たちのアイデンティティの覚醒(本当のところはそういう社会的アイデンティティの創造)が発端だったのでした。

***

 「LGBTの練習問題」なのに、長々と黒人解放運動の始まりについて書いたのには理由があります。アメリカにおけるLGBT解放運動が、先行した黒人解放運動、女性解放運動の2つに多くを学んだことはすでに触れました。同時に、LGBT解放運動の契機の1つもまた、黒人公民権運動と同様に第二次世界大戦だったからです。
 こちらも少々長くなりますが、前回で紹介したLGBTヒストリーブック』から引用します。

 他のどんな出来事と比べても、第二次世界大戦がアメリカにおける現代ゲイ人権運動のきっかけになったことは否めません。この戦争の間に男性は1,600 万人が、女性は35万人が米軍に従事しました。ほとんどの兵士たちにとってそれは故郷を離れる初めての体験でした。これが多くのゲイやレズビアンの兵士たちに自分と同じ他者と出会う機会と、彼ら同士が共有する感情に向き合う自由とを与えたのです。
 開戦前、「アメリカ心理学会 American Psychological Association」(APA)は軍部に 新兵の同性愛テストを行うよう進言していました。ところが当時の陸軍省はゲイであろうがなかろうがとにかく兵士を求めていた。なので入隊者は単に「女子は好きか? Do you like girls?」と質問されるだけでした。これにはゲイであろうがストレートであろうがだいたいは「イエス」と答えても嘘ではなかったわけです(女性兵に関しては同様のふるい分けは行われませんでした)。
 戦争の5年間で入隊を阻まれたゲイ男性は5,000人に満ちませんでした。「とんでもない数のゲイたちを知っていたが、誰も、例外が1人いたけど、ゲイは兵士になるな、なんて考えてるやつはいなかった」と思い返すのは陸軍にいたチャック・ロウランドです。
 「国家が重大な危機にあるっていうのに、ゲイだからどうだとかそんなバカみたいな規則のせいで、俺たちが国に尽くす特権を奪おうとかいうの、そういうのはまるでなかったよ」。ヒトラーによるゲイ弾圧を知ったゲイたちは、逆に自分もゲイだからこそという理由で入隊を志願しもしたのです。アメリカ国内では一方で、200万人の女性たちが産業労働力に参入しました。航空機を作ったり船舶や爆弾やジープも組み立てていました。そうした工場労働では髪の毛が長いのは危険なので、女性たちが髪を短くしたりスラックスを履いたりしても誰も問題にはしなくなりました。1930年代だったら異端視されて嫌がらせされてもおかしくなかったことです。こうして港湾都市や工業都市ではレズビアン・バーが隆盛を迎えたのです。
 やがて戦争が終わってゲイやレズビアンの軍人たちが、新しいモノの見方とともにアメリカに帰ってきました。多くの者たちにとって帰還して軍務を離れた港はサンフランシスコやニューヨーク、ロサンゼルス、サンディエゴなどです。彼らはそこにそのまま住み着こうと決めます。ある者にとっては、悲しいことに、それ以外に選択肢はなかったのでした。
P.4142

1 2 3
< >

バックナンバー