どうですか? まるで同じでしょう? さらにもう1つの共通点は、帰還したゲイやレズビアンの兵士たちが、黒人帰還兵と同じようにアメリカ本土での「差別」に直面したことでした。戦時こそ兵員が必要だったペンタゴン(国防総省)でしたが、平時には兵士の過剰供給が生じます。そこに同性愛者であることが都合良い除隊理由として用いられたのです。彼/彼女らは不要になります。1万人近い兵士たちがゲイやレズビアンであるという「不適格除隊」で追放されました。
 「不適格除隊」になると、復員兵援護法の恩恵が受けられません。住宅融資や復学のための学生ローンも受けられません。そればかりか戦時負傷も退役軍人病院での無料治療対象にはならなくなるのです。たとえ五体満足で帰還しても、「不適格除隊」だと知れると就職先で門前払いされるのがオチでした。しかもペンタゴンはその情報を企業や商店などの雇用主向けに公表していたのでした。

 そこで「作用と反作用」の物理法則が顕現します。黒人兵たちは「黒人」であることに、しかも民主主義のために戦った「兵士」であることの矜持(プライド)とともに自らをカテゴライズします。同性愛者たちもまた自分が同性愛者であることを引き受け始めます。なぜなら、そうしない限りペンタゴンに「差別をやめろ」「平等に扱え」と主張できないからです。カミングアウトは戦うためには必然だったのです。それはちょうどエイズ危機に際して、多くの患者感染者がカミングアウトしなければならなかったのと同じ論理です。
 そうやって、「アイデンティティの政治」が登場してきます。その当時、「アイデンティティの政治」の弊害を唱えるものは1人もいませんでした。それからの黒人やLGBTの公民権運動の進み具合を見れば、「アイデンティティの政治」はそこのその時点ではとても必要だったということは否めません。エイズ危機を思い出してください。あの時もまた患者感染者のアイデンティティ、当事者であるという引き受けが必要でした。それ以外にエイズ禍と戦う術はなかったのです。

 「アイデンティティの政治」が問題視されるのは、「アイデンティティの政治」がまるで普遍的で本質的なものであるかのように力を持ってきたからです。そしてそれはまた、個人の「アイデンティティ」が不変の、自分に固有で本質的、かつ全体的なものであるという思い込みによって生じる問題でもあります。
 ゲイで、かつエイズで亡くなったミシェル・フーコーが言っています。

「主体性、アイデンティティ、個性といったものは、60年代以降、ある重要な政治的問題を構成していると思われます。アイデンティティと主体性を、政治的、社会的要因によって左右されることのないような本質的で自然な要素とみなすのは、私の考えでは危険なものです」(『国家理性を問う』)

 ただ、私としては、順番を考えたいと思っています。「私」というものが何かそれだけで成立できるような、本質的な何かを存在の基盤にしていると考えることは本質主義的な考え方(essentialismと言います。一方で、「私」というものもまた、いろいろなものが重なり合いかぶさり合い、様々に作用し合って作り上げられたものだというのを構成主義、または構築主義(constructionismと呼びます。
 「ゲイ」あるいは「レズビアン」が本質的なものか、それとも構築的なものか。それは第二次大戦時の「黒人」がアメリカ本土とヨーロッパ戦線で(その中でもイギリスとドイツではまた)同じ存在ではなかったことを考えれば、「ゲイ」という概念も同じくまた江戸時代の日本や古代ギリシャなどで、それぞれに異なる概念であったと気づくはずです。つまりそれもまた構築されるものなのだと。
 ただ、今の日本で、自分がゲイであることは、なんとなく本質的な何か、「自分」の内側にあるとても重要な何かとどうしたってつながっているような気がする。それは拭い去れない宿命的なものにさえ感じる──「自分」に気づくときには多く、まずそういうふうに感じ、考えがちです。そこから「自分」というもののアイデンティティを確立して行きます。ただし、この「どうしたって」ということ自体も構築された感覚なのかもしれません。
 そうやって人々は本質主義を考え尽くしてから構築主義へと移行してゆきました。本質主義をハナからすっ飛ばしてすぐに構築主義に軸をおける人はとても頭がいい人だと思います。
 順番と言いましたが、それは私たちはまず、アイデンティティを確立しない限り、アイデンティティの政治を批評的に止揚できない、ということではないかと思っているのです。
 それはちょうど、「ポリティカリー・コレクト(政治的に正しい)=PCと半ば鼻で笑われ揶揄されながらも、まずはそこに「コレクトネス(正しさ)」を確立されていなければ、「PC」とは揶揄にも値しないということに似ています。
 「PC棒」と批判の声が上がるたびに、私は果たして日本で一度だって「政治的な正しさ」が社会の潮流になったことがあったかと考えてしまいます。「正しさ」が「棒」になるほどの権力を得たことがあったか? 権力も纏っていないひ弱な「正しさ」が、「政治的な正しさ」だと先取りされて揶揄され批判される社会。
 同じく「アイデンティティの政治」がそもそも力を持ったためしがないような社会で、頭の良い人たちが「アイデンティティの政治」の危険性、欺瞞性に先取りして警鐘を鳴らす。
 そうして「正しさ」も「アイデンティティ」も、芽を伸ばす先に摘み取られてしまう社会に、ニヒリズム以外のどういう未来が待っているのか、私にはそれがわからないです。まずは順番だというのはそういうことです。もちろん、私たちはすでにその先に落とし穴があることを知っている、という意味での、「正しさ」と「アイデンティティ」の獲得です。
(続く)

 

*本連載エッセイは、誠文堂新光社ウェブサイト内の「よみものどっとこむ」との連動企画です。



プロフィール(前号流用)

■北丸雄二
ジャーナリスト、コラムニスト、作家、翻訳家/元々は毎日新聞から東京新聞(中日新聞東京本社)に転社した社会部畑の新聞社記者で、クリントンが大統領に就任した1993年にニューヨーク支局長に着任。3年半後の96年夏に帰任を命じられたのを機に退社し、独立。その後もニューヨーク在住のまま、大統領がG・W・ブッシュ?オバマ?トランプと変わった2017年まで、計24年間、米国政治・社会・文化、日米及び国際関係の分野でジャーナリズム活動を続ける。18年、実母の老齢化のために拠点を日本に移し、現在は主にトランプ・ウォッチャーとしてTBSラジオやFM TOKYO、大阪MBS及びネットTVなどで米国関連ニュースを解説。一方で、英米文学、ブロードウェイ・ミュージカルや戯曲の翻訳も多く、『世界』『現代思想』『ユリイカ』などで国際情勢から映画、音楽、文芸まで各種評論も行っている。LGBTQ+関連では90年に米国ゲイ文学の金字塔と言われる『ザ・フロント・ランナー』を翻訳刊行したのを機に、新聞業務と並行するライフワークとしてエイズ問題や刻々と拡大する人権状況を取材執筆開始。ニューヨークでは日本人コミュニティ向けにHIV/AIDSの電話相談の開設・運営にも尽力する一方、97年から、日本のゲイ月刊誌『Badi』に米国を中心としたゲイ関連ニュースコラムを連載。同年6月に青土社から刊行の『ゲイ・スタディーズ』(キース・ヴィンセント他著)でも全面的な監修を担当し、ほかにLGBTQ+関連のニュースを報じるプロフェッショナルが誰一人としていなかった当時、『AERA』で「日本に向けて性的マイノリティに関する正しい情報を発信するゲイのジャーナリスト」という紹介記事も掲載された。現在、十年来の同性パートナーと5歳の黒猫とともに東京に暮らす。 

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