20年以上にわたってニューヨークで暮らし、アメリカから日本を、そして世界を観てきたジャーナリスト・北丸雄二さん。そこで得た知見をもとに、「LGBT」で人生を読み解きます。

 では、「ホモセクシュアル」はどんなアイデンティティを獲得できるのでしょうか?

 おそらく多くの国や文化で、「ホモセクシュアル」という言葉が(トランスジェンダーの“発見”にまで至らぬ前近代的な世界で)表象するものは、例えば日本では三島由紀夫の時代くらいまでは「隠花植物」とか「薄化粧」とか、あるいは「なよなよした」とか「女々しい」(レズビアンは多くの場合、顕在していませんでした)とか、はたまた「派手派手しい」「ケバケバしい」といったもので、だからこそ三島はその範疇で特別な存在として異彩を放つ「南悠一」なる美青年を『禁色』で造形したりもしたのでしょう(とはいえそれもペロポンネソス的男性美の移し替えでしたが)。

 それは驚くほどに万国共通のステレオタイプで、フランク・シナトラ主演の映画『刑事』のハッテン場はおどろおどろしく異様で、『真夜中のパーティー』にはけたたましく“オンナ”のエモリーが必要で、トーマス・マンの描く『ヴェニスに死す』のアッシェンバッハも薄化粧をして老醜の上塗りをするよう演出されます。

 いや、薄化粧をして何が悪い、“オンナ”の意匠を選択してどこが問題だ、ハッテン場の欲動の本質を見つめよ、という議論は尤もです。ですがそれもそこへは一足跳びには行けませんでした。一回そのステレオタイプを別の(より大衆受けする)肖像によって相対化する作業を経ないと、なかなかその“境地”には達せなかった。大衆としてのゲイ文化を底上げするには、その別の肖像(という別のステレオタイプ)をゲイ・コミュニティとして再発見する(同時に、ストレート社会に発見させる)必要がありました。それはそして、やがてはその両方のステレオタイプを脱構築することになるわけです。

 その別の肖像が、前回のコラムで触れた「オール・アメリカン・ボーイ」(アメリカの理想の男性像)でした。いや事はアメリカに限った話ではありません。「オール・ブリティッシュ・ボーイ」でも「オール日本男児」でもよい。とにかく「隠花植物」とは真逆の、陽の光の下での「健全」な生き物たちの姿が必要だった──。

 「健全さ」の権化といえば、アメリカではまずはスポーツとボーイスカウトでした。そこで、エイズ禍を戦い生き延びる1990年代に、「健康」で「溌剌」たるスポーツ選手のカミングアウトがメディアによって取り上げられます。

 ところがなかなかうまく行きません。「健全さ」は、ジェンダー規範が大きな土台になっていたからです。ジェンダー規範とは、この場合は、異性愛が規範である(heteronormativity)という考え方に基づきます。異性愛規範によって「男らしさ」「女らしさ」の醸成が奨励されるのですが、スポーツ文化はそこの「男らしさ」に拠って立って発展してきました。オリンピックが始まった古代ギリシャはもちろんのこと、いわゆる文明社会一般で女性は長いことスポーツには不向きとされ、スポーツというものに参加したのは19世紀末が初めてのことだったのです。それも乗馬、アーチェリー、ゴルフ、テニス、スキー、スケートなど限られた分野に上流社会の女性だけが勤しんでいたわけです。

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